DOJOサポーター・メーリスから
ケロ坊さんのご意見紹介です!!
こんにちは。ケロ坊です。
男尊女卑の男に集まる人たちが、男のおかしなところを指摘できないイエスマンになっているのは、その集団が甘やかしによって成り立っているためです。
特にその男は、なぜかDOJOには全然参加しないのにゴー宣ファンを気取っていて、DOJOのテーマである「女性の地位向上」を自分もやっていると見せかけたいこともあり、女の人は厳しいことを言われることはありません。
それは一部の女の人にとっては居心地がいいのでしょう。
男尊女卑の男、そこに集まる女の人(一応男も含む)、双方にとって否定されない共依存の集団です。
そうして生温〜い「甘やかし教」ができあがります。
しかし、そもそもそのような甘えた関係を許さないのがゴー宣というものです。
なぜならゴー宣の目的はいつも「国の独立」を目指しているからです。
なんとなく過去作のページをめくっても、『戦争論』でも『コロナ論』でも『日本人論』でも、究極のテーマは国の独立に向かっていることがわかるはずです。
そして「一身独立して一国独立す」の言葉通り、国の独立は国民一人一人の生き方にかかっているのも自明です。
日本は今も昔も皇帝が支配する独裁国家ではなく、公の国なのだから当然ですよね。
これは個人レベルで言えば一人一人に自立してもらうということになります。
だからこそ、ゴー宣は基本的に読者に問いかけるもの、思考を促すものになっているわけです。
読者を無条件に褒めたてる日本スゴイ本や自己啓発本との決定的な違いもここにあります。
思考を促す描き方としては、コロナ君というキャラクター自体がそうですし、慰安婦問題のときのよしりん少女像もそうですし、もくれんさんが挙げていた「黒人の子供の障害者の慰安婦は最強か」の話もそうですし、最近なら“うまずし”もそうですね。
なぜそうするかといえば、日本国というものは先祖から受け継いできたものだし、自分が死んでも続いていくものなのだから、これを保ち守るためには日本国民として自立してもらわないといけません。
そうなると必然的に甘やかすこと、ひたすら肯定するようなことはしないわけです。ニートの例を出すまでもなく、自立できなくなりますから。
このことは「よしりん辻説法」でもパンダの子離れとして描かれていました。
子育ての究極の目標が子供を自立させることなのは、人間だけの話ではなく、生命としての摂理です。
これは仕事でも同じであって、女育てブログにある8時間ベタ付きなんかして、それがその人の自立に良いわけがないのはすぐに気付かなければいけませんし、指摘をしなければおかしいのです。
自立した個人なのであれば。
以上が「甘やかし教」と「ゴー宣」の圧倒的な違いです。
私が「お仲間主義」を嫌うのも、まさにそのためです。
みんなでぬるま湯につかるのが心地よくて、身内意識を守るのが第一になってしまったら、そのお仲間が集う場を作っている人の言うことやることに対しては、誰も批判ができなくなってしまいます。
それは「私」のための行為でしかなく、「公」に向かなくなっていくのは当然としか言いようがありません。
ある意味、そんな「お仲間共同体」を作ってしまうこと自体が、非常に日本人らしいといえば日本人らしいことだといえるのかもしれません。
もっとも、それはゴー宣が常々問題視している、悪しき「日本人らしさ」なのですが。